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あまりにドイツ的、人間的な人物
アドルフ・ヒトラー
 Adolf Hitler
○歴史と人物
○功績と失敗
○勝利と敗北
○栄光と破滅 
  
 []回目のアクセス
●ヒトラーを邪悪な狂人、異常者とみなす一般的なイメージがあるが、それは違う。そもそも異常者がこんな複雑な近代国家体制を運営できるわけがない。ヒトラー個人は非常に社交的で、読書家で芸術が趣味であり、女性との交友関係も非常に広かった。彼はインテリのサロンに出入りしていたし、ウィットに富んだ魅力的な男性あった。彼は結局ドイツという国と時代環境に従って自らの目的のために行動しただけの指導者的人間だっただけである(凡人でもない。凡人があのような激務に耐えられるわけがない)。

●ヒトラーを人々が忌避する理由の最も大きなものは反ユダヤ主義であろう。しかし、この考え方はヨーロッパでは従来からくすぶっていたもので、決してヒトラーの専売特許ではない。当初は、国外追放が計画されイスラエルへの移住政策で5万人以上(ほとんどが金持ち)がドイツを脱出した。アラブ人の反乱で中止後、一時マダガスカルへの移住計画さえあった。しかし貧しい何百万というユダヤ人は、戦争による窮乏下であのような悲劇に至ってしまった。
DAS DRITTE REICH
NATIONALSOZIALISTISCHE DEUTCHE ARBEITERPARTEI
    DER FÜHRER
◆◆ヒトラーの人間的な姿を描き尽くし、人間性の真の理解を目指す。◆◆
はじめに================================================================
われわれは多くの独裁者の支配の下に生きてきた。民主主義という政治形態に移行したのは、ごく最近で、わが国は欧米と異なって、上から与えられた民主主義であり、歴史性の欠如のため誰もその意味などあまり理解していない。そして、深層では、偉大な指導者が現れ、万人を唱導してくれることを望んでいる。価値への奉仕という人間的な集団行為への欲求を満たしたいのである。

われわれのその唱導者のモデルの一つを、まさにヒトラーが示している。政治とはかけ離れて、われわれにはつねに「独裁者願望」があり、強力な神秘的な指導者の存在を欲する。不幸にして現代ではそのような指導者の存在は否定され、人々は渇望している。宗教もなく、ただ、漫然と生きるなか、歴史的存在とはいえ、こうした独裁者はわれわれに人間のあり方を教えてくれるのだ。

=================================================(開設 2000年7月)
ヒトラーを支援した女性:レニ・リーフェンシュタール−戦後以来現在も高齢ながら現役で活動中。
「意志の勝利」「民族の祭典」などの映画でナチスのプロパガンダに最も貢献した一人
  
関連資料:『意志の勝利』とリーフェンシュタールの発言 『意志の勝利』詳細
リーフェンシュタールの人となり

ヒトラーと子供:総統の人間的な姿。
ヒトラーは実際大変な子供好きで別荘は側近の子供たちで賑やかであった。


 
【ヒトラーの生涯】

1889年4月20日、オーストリアのBraunau Am Inn(ドイツババリア地方との国境付近) という小村に生まれる。父親Aloisは当初母親の姓Schicklgruberを名のるが、39歳の時に父親の姓Hiedlerを名のるが、後に正式にはHitlerとなる。

Adolfは父親Aloisが3度目の結婚で52歳のときに4人目に生まれた子であった。母の愛情に恵まれ、後に弟Edmund(1900年死去)、妹Paula(1960年死去)ができる。やがて、父は引退して年金生活開始するが、この権威的な父とともに、最愛の母クララ、前妻の二人の兄と姉、そして弟、妹に囲まれてアドルフは賑やかでまた落ち着かない生活をする。

リンツとザルツブルクの間のLambachに一家がいたとき、修道院の学校に通っていて、そこにいくつかある
鉤十字の彫刻が日常的に目に入った。この鉤十字は、1800年代に修道院長が、自分の名前が鉤十字を表すHakenkreuzによく似た音だったので冗談のつもりでつくったものだった。ヒトラーはこのころ牧師になりたいと思っていて、とりわけこの修道院長を尊敬していた。

その後、アドルフは描画が得意だったので、芸術家として成功することを夢見るようになり、古典学校に進学を希望。しかし、父は官吏の道を強要、結局
1900年11歳のときリンツの技術(実科)学校に進学することになる。数学や語学が不得意だったので1年のとき落第した。このころドイツナショナリズムに目覚め、またワーグナーのオペラに心酔。

13歳のとき父親は死亡、既に兄たちは父親と対立して家を出ていたので、一家の長男として遺産を相続。芸術家志望のヒトラーは、結局15歳のとき別の中等学校に転校。ここでも数学や外国語などには全くやる気を示さなかった。酒を飲んで前後不覚となり、以後禁酒の誓いをたて生涯酒を飲まなかった。

学校は結局卒業できず、
17歳で退校。数年間オペラ鑑賞、読書や絵画などをして気ままに過ごす。このころ唯一の友人として音楽家を目指していたAugust Kubizekに出会う。また、Stephanieという女性を密かに慕い多くの詩を書きラブレターを送るが彼女もほとんどヒトラーについて認識がないままだった。このころドイツの歴史・神話やワグナーのオペラによって、ドイツ人中心の世界観を築き上げる。

またウィーンに出かけ絵画や建築に魅せられ、美術への情熱を一層強くし、
18歳のときウィーン美術学校への入学試験を受けるが不合格に。人体描写が不出来だったが、風景や建築物には才能が見られると告げられる。年初からの母親Klaraのガンが、術後も容態が良くならず一時ウィーンを去る。懸命に看病に励んだが、既に手遅れでその年のクリスマスを待たずに死亡し、深い悲しみに浸る。

翌年(
1908年)再び美術学校を目指し、友人のKubizekとともにウィーンで気ままに暮らす。二度目の試験も不合格となるが、友人は希望の学校に合格。失意のうちに友人から離れ、定職にも着かず浮浪者生活に入る(最近事実の修正があり実際は普通の気ままな生活のようだった)....。


 少年時代続き  
第一次世界大戦  ナチスの形成 ヒトラー小伝 ヒトラー世界観の源流
■碑銘
少年のころは打ち解けず、反抗的で
青年のころは高慢で、御しにくく
大人となっては 実行にはげみ
老人となっては 気軽できまぐれ
  −君の墓碑銘にはこう記されるだろう。そして君は人間だったことは確かだ。(ゲーテ
■関連年表

1919年軍の政治局からドイツ労働者党の調査を命じられ、後入党。党のプロパガンダの役目を負う。
1920年国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に改名し、ハーケンクロイツ(鉤十字)を象徴とする。
1921年には党首となる。同年連合国側は賠償をドイツに要求し、マルクはがた落ちになる。ドイツはデフォルト(債務不履行)を宣言する。
1923年フランスルール地方占拠。ヒトラーはドイツの指導者の無策に反発し、ミュンヘン暴動をおこすが投獄される。その8ヶ月間『わが闘争』を口述筆記する。
1924年
ドーズ案によってアメリカから支援を受け、見返りに賠償の支払いを開始。
1928年の選挙ではナチは608議席中12議席しか獲得できなかった。8月シュトレーゼマンによる「ヤング案」受諾
1932年
は230議席。年末では後退し200議席を割る。
1933年ヒンデンブルク大統領より首相に任命される。国会議事堂炎上し、共産党壊滅。3月の選挙でナチスは最大党になるとともに、ヒトラーは「全権委任法」によって独裁権力を得る。
1934年ドイツ国際連盟脱退。国民投票でヒトラー総統(Fuhrer)兼首相になる。
1935年ニュルンベルク法によって、ドイツのユダヤ人の人権剥奪。
1936年
ラインラント進駐。
1938年オーストリア併合。フランス・イギリス・イタリアとの「ミュンヘン合意」によってチェコのズデーテン地方占領。
1939年
3月にはイタリアと「鉄の同盟」、8月には「独ソ不可侵条約」締結。9月1日ポーランドに侵攻し、「電撃作戦(Blitzkrieg)」開始。英仏が参戦、ソ連はポーランドに侵攻し、独ソ間で「ポーランド分割」。またポーランドのアウシュビッツに監獄が開かれる。
1940年デンマーク・ノルウェー・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ・フランス侵攻、ダンケルクから連合軍撤退。6月パリ入城。7月には英国と戦闘開始。
1941年ギリシャ、ユーゴスラビア降伏。ソ連侵攻。「最終解決」指示。12月日本の真珠湾攻撃。ドイツ、アメリカに宣戦布告。
1942年ドイツ軍スターリングラード攻防戦。
1943年2月ドイツ軍スターリングラードで降伏。北アフリカ戦線退却開始。イタリア降伏。
1944年イギリスハンブルグ大空襲。6月連合軍D-day作戦上陸成功。8月パリ解放。9月ジークフリート線に米軍到達。
1945年ソ連ワルシャワ占領、アウシュビッツ解放。4月ベルリン到達。4月30日ヒトラー自殺。5月ドイツ無条件降伏。6月ドイツとベルリンの四ヵ国分割占領。

ナチス国家-歴史学における通説

●ハーケンクロイツについて
(Hakenkreuz)
「国家社会主義者として、われわれは、われわれの旗にわれわれの綱領を見る。赤に運動の社会主義思想を、白に国家主義思想を見、ハーケンクロイツにアーリア人の勝利のために戦う使命を見る。」
(ヒトラー)

●「背後からの一突き(Dolchstoss)」
第一次大戦に敗れたのは、国内のユダヤ人が背後からナイフで突き刺したためであるとする観念。

●ユダヤ人への差別は、シェークスピアなどの文学に表現されいるように、ヨーロッパにおいては歴史的なものである。ヒトラーとナチスへの非難、そしてイスラエルの成立によって、ヨーロッパ人は自らの差別の歴史という罪悪感から逃れられると考えてはいないだろうか。
■NSDAP研究■
(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )

●ナチスとは当時の社会民主党による蔑称であるが、現在では一般的呼称となっている。当時、自身では国家社会主義ドイツ労働者党あるいはNSDAPと呼んでいた。


●「社会主義」とは、中間層や若い層ではドイツ的な社会主義を意味し、それは希望あるイメージを持ったもので、ソ連の共産主義とは別ものであった。

”FÜHRER”には総統などという意味はない。それは指導者という意味であり、ドイツ語で旅行ガイドなどのガイドのこともFÜHRERという。従って、誰が決めたか知らないが、総統という日本語訳は全く適切でないのである。DERと定冠詞がつくことで、特定の地位を指し、それはヒトラーを指すことになる。

●「ホルスト・ヴェッセル(Horst Wessel)の歌」=ナチスの党歌。Wesselは1930年共産党との市街戦で死んだSAのメンバーで、この歌を作詞した。行進曲として国家に次ぐ地位を持っていた。

◆ヒトラー栄光への道◆

ミュンヘンの蜂起まで
合法的権力獲得
なぜヒトラーは権力を獲得できたか

◆ヒトラーの副官たち◆

主要な副官たち
ヨーゼフ・ゲッベルス Joseph Goebbels
アルベルト・シュペーア Albert Speer
ルドルフ・ヘス Rudolf Hess

ハインリッヒ・ヒムラー Heinrich Himmler 

◆反ユダヤ主義◆

歴史と経過
ヒトラー世界観の源流
最近の研究例−歴史的経過から生じた
ヒトラーの世界観とは
ヒトラーに影響を与えた人種論者たち

◆資料◆

ナチ党綱領
ヒトラーの"わが闘争"から
ヒトラーの発言集
ヒトラー逸話集
ヒトラーについての他者の発言
ヒトラーの遺書(政治遺書T)
ヒトラーの遺書(政治遺書U)
ヒトラーの遺書(個人遺書)
親衛隊(Schutzstaffel)の歴史

●帝国はReich(ライヒ)の日本語訳だが、この歴史的な言葉(言葉は歴史的なものだが)は、神聖ローマ帝国の独立諸邦(Staat)に大して、中央の政府を意味するものである。従って、いわゆる皇帝を冠するような「帝国」という意味とは本来違うものである。本によってはライヒとしているものもある。例えば、フランスは今でもFrankreichと呼ばれている。従って、日本語の「帝国」という訳はほとんど誤りである。

●”第三帝国 Das Dritte Reich”はアルトゥーア・メラー・フォン・デン・ブルックがミュンヘンでのヒトラー一揆の年に初めて用いたものである(第一は神聖ローマ帝国、第二がドイツ帝国)。


◆そのほか◆
ヒトラーとノストラダムス
ヒトラー生存説
反ナチ文化人たち-ヘッセの場合
ハイネとドイツ国民
ヒトラーの精神は今も生きる
”指導者”ヒトラーの歴史的写真■■■■

パリ入城 ニュルンベルク党大会
NY TIMESの記事 国会での演説
全権委任法成立

ヒトラーのポートレート■■■■

生涯禁酒・禁煙で、芸術ことに建築・美術あるいはワグナーの楽劇を好んだ清廉な人物。彼は本気で世界を正しいもの、民族の平和な楽園にしようとしていたのではないか?

愛人エヴァ・ブラウン
ヒトラーの女性像
ヒトラーの精神・思想
ハインリッヒ・ホフマン=ヒトラーの写真家
ヒトラーをパーキンソン似症状にした医師
ヒトラーが真剣に愛した女性マグダ
《あなたの心の鉤十字(ハーケンクロイツ)をもっと正直に認め、堕落から解放されなさい》
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